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……なんとかこらえようと思った。
家に帰ったらいつもの顔を作って、きっと今の時間ぼんやりと本でも読んでいるか、最近買った体幹を鍛えるゲームをしているか……とにかくそんな感じだろう牧人さんに明るく声をかける。
それくらい簡単だと思った。思わされるくらい私のここのところの生活は穏やかで、ありとあらゆるつらいことから遠く離れていたから、忘れてしまっていた。
自分がいかに精神的苦痛に弱くて、誰よりもひがみっぽくて、いじけやすくて、ダメ人間で、
要するに生きていることに向いていない存在だったか。

「や、やっぱり私、だめなんだ……ああいうのに目をつけられやすい、や、安っぽい、魂が薄そうで、そういう、うあああっ」
「違う違う、大丈夫だって」
「牧人さんに優しくされすぎて忘れちゃってたんだ、お、お店に来るのも、周りも、み……み、みんないい人で、そういうのに慣れすぎて……やっぱり私の人生、トカトントンなんだっ」
「トカトントンって」

 

牧人さんの声はそこで少し笑ったふうだったけれど、その笑いの振動というか、気配というか、それは長く続かなかった。
すぐ打ち切られる。つまりようするに愉快ではない。

 

「ど――ど、ど、どこに行っても一緒なんだ!」

 

もはや見知らぬ男に触られたことなんか、ただのきっかけだった。
今まで忘れていた劣等感や屈辱が、深い井戸の底からどろどろ溢れてくるみたいだった。
腐ってる。全部腐ってる。
でも確かにそれらは私の中にあった。
なくならない。こんなに、分不相応なほどに幸せな暮らしをしているのに。
私の醜い感情たちは、消えてなんかいなかった。
ただ少しの間見えなくなっていただけ。

 

「まあまあ」

 

牧人さんは優しい。
でもその優しさも、今こうして感情を吐露したときの苦痛を形作っている。

優しくされることはおそろしい。
これは今までの、孤独にくさくさしていた己の認識だ。
裏に潜む下心が見えている。欲望にひたひたになった「優しさ」なんて、おぞましいものでしかない。
それはつまり、私にはそういう感情しか向けられなかったからで、
でもそれもお似合いで、その程度の価値しかない、人間関係しか構築できない、とにかく私という人間の体現だった。

牧人さんのそれは違う。だから二人で過ごすようになってから今日に至るまで、ときどき慣れずに居心地が悪くなることはあっても、おぞましいなんてふうには思わなかった。
でも今、ついさっき改めて実感した。
優しくされると、甘やかされると、忘れてしまう。
自分が本当はみじめったらしくて、なにもできない人間だということを。

 

「どうして、あんな……」
「どうしてって、相手の頭がおかしいからだって」
「で……でも、あいつ、きっと、私が牧人さんと一緒だったら、絶対、近寄ってこなかった」
「うーんまあそれはね、頭がおかしい奴って、得てして自分に害が及ぶことには敏感だし」
「害って……」
「いや、俺がいるのにたがねにそんなことしてみなよ」

 

ぎし、ぎし。
床に座り込んだ私の隣にある座椅子に腰掛けていた、牧人さんの身体が揺れる。

 

「……いや、なんかこれ寒々しいな。助けらんなかったくせに、粋がっちゃ恥ずかしいよね」
「……そんなことは、ないと思うけど……」

 

牧人さんを困らせている。
知らない人間につきまとわれて、身体を触られて、それは確かに屈辱だし、感情も乱されて……。
黙っていられないことだったけれど。
でも牧人さんに話して、なんとかしてもらえるかというとそうでもなかった。
性的な屈辱ってこうだ。
心のどこかに、私なんかこうされて当然だという諦念や卑屈さがあって、それを嗅ぎつけられている。
その結果被害に遭って、間違いなく私はつらい目にあったのに、
泣いていい、怒っていいはずなのに、
なのにそれを人に話すと、話されたほうも傷ついちゃって、いつの間にか私は加害者に早変わりだ。

――お母さんとても傷つきました。あなたがいやらしい存在として男に見られているっていうこと、改めて知りました。

 

「う、うううぅうぅうぅ……!!」

 

おぞおぞと。
昔のつらいことまでよみがえってくる。

 

「こ――高校生の頃もそうで……ば、バイトしてて、日曜日出勤するときに……さ、触られて、き、キスまでされて! くっついてきた! 唇が……」
「ちょ、待ってって」
「気持ち悪すぎてっ……な、泣きながら店に電話したらため息つかれて! 痴漢くらいでそんな大げさな、って……」

 

破裂する。
この私の苦しみを、少しでもわかろうとしてくれる人はいない。

 

「そうなんだ、私なんかひどいことされてもしょうがない人間だから、されるし、周りだって心配してくれなくて……み、店に行けなくなって、お、お母、ううううぅっ……!」
「もういいよ、大丈夫。伝わった」
「伝わって、な、う」
「平気だよ、話さなくても。全部言わないとわからないことばっかじゃないって」
「う――ふ、う、く、く」

 

気がつけば椅子からおりて畳にしゃがみ込む牧人さんが、手を差し出してくる。

 

「あ」

 

触れると汗だくだった。

 

「伝わってるよ、わかるよ」
「…………」

 

そこで、身を襲った悲劇に包まれたまま、暴れ回ってやりたいなんて思っていた自分はどこかに行ってしまった。
それは牧人さんを傷つける行為だ。
私はゴミ箱にむかって唾を吐くくらいの気持ちでいても、牧人さんはそうじゃない。
……で、そうじゃないことを私もわかってる。
わかってるから、あとできっとものすごく後悔する。
だったら自制をすべきだ。
きれいごとでも、見栄でもなんでもいい。
牧人さんを傷つけたくない。

 

「ご……ごめん、私……」
「謝る必要はなくない?」

 

笑う。
私のために笑ってくれる。
だったら私も牧人さんのために、泣くのをやめたい。

 

 

 


「……私、自分のこと逃げたって思ってるから……」
「なにから?」
「……なんか、私みたいな、底辺っていうか……本当にどうしようもない人間は、わりといて……私はその中から、いち抜けしたみたいになって……」

 

それも自分の力でじゃない。
牧人さんがいてくれたからだ。

 

「ずるい……よね。きれいなふりしてる。すごく汚いのに。今日だって、牧人さんにあんな、全部喋って、なんでもぶちまけようとして……なんなら、牧人さんも最低の気持ちになればいいんだって……八つ当たりだよね。そんなことしてる奴が……奴が、奴が、ケーキなんか売って、牧人さんみたいな人の傍に……きれいな……生まれた頃から、傷なんてないみたいな、すっとぼけた顔してて……」

 

逃げたくせに。
傷だらけのくせに。

 

「こんな人間、ずっと苦しい思いしてればいいんだ。逃げたって……追いつかれたとき苦しいのに……」
「逃げたらダメなの?」

 

牧人さんはけろりと言った。わずかに悲しく笑いながら。
その顔で、この人もまた瑕疵のある存在だということを実感する。

 

「逃げたって、追いつかれるし……」
「また逃げればいいじゃん」
「物事の……根本的解決……」
「そんなのできないってもう、俺もタガネサンもわかってるわけでして。ね?」
「…………」

 

言葉の通じない人間。
価値観を共有できない存在。
人を踏みつけることで快感を得る怪物。

 

「逃げ勝ちにしちゃえばいいじゃん。逃げ切ろ?」
「……勝てない……」
「負けた顔してうずくまっておけば、追い越してくれるかもしれないし」
「だって……」
「諦めてたよ、なんでもわりと」

 

冷や汗で湿った手が、私の指を握ってくる。肌に緊張を感じ取る。
おそろしい。牧人さんも今おそろしさと対面している。
逃げたいものに追いつかれそうになっている。
いつだってぎりぎりだ。笑ってくれる牧人さんのすぐ後ろにも、私とは別のものがぴったり張りついている。
牧人さんはそれをわかってる。だから振り返らない。
隣は見る。私のことを。前も向く。私との未来を。
なのに今、振り返りそうになっている。そうさせたのは私だ。
ぎりぎりのところに挑もうとする。そんな危険を冒してでも私をすくいあげようとしてくれる。

 

「今は諦めたくないって思ってるから、逃げるしかないの」

 

……どうして私が、この人にしてやれることはこんなに少なくて、
それでもって、どうして私はここまで愚かで、牧人さんだってぎりぎりだっていうことを、ときどき忘れてしまうのか。

 

「……ちゃんと逃げるから……」
「あはは、なんかそれも変だな。頑張って仕事さぼる、みたいな」
「牧人さんと一緒に、逃げられるように……頑張るから」
「うん、それは頑張ってほしい」

 

手のこわばりが薄らいでいく。
肌のほんのわずか先に張りつめていたものが消える。
私の手指となれ合って、くっついて、温度を共有しようとする。

私が支える、私が支える、ダメな私が、この人を支えてる。
同時に私も支えられて、
一人じゃ耐えられない苦しみも、醜い過去も、
この人のためだと思えば、見なかったことにして、井戸にふたをしていられる。
その上に牧人さんとの家を建てちゃえばいい。
わかってるけど難しいこと。

 

でもきっと、やろうと思えば、やれるほうに転がっていく。

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