top of page

「このあいださ」

と言いかけて、実際口にまで出したのにやめる。

向かいの席に座ったれいは、コーヒーカップを妙にうやうやしく置いたあとにそんな俺を見た。

ここに初めて二人で入ったときのことは、大して印象的というわけでもないのに変に覚えていた。


大学の近くにある飲食店の密集した通りの中にある喫茶店。
このへんの店のメインターゲットは、間違いなく大学生だった。
「学生さん大盛り無料」とか、そんなサービスを張り出しているところばかりだ。
だというのにれいは、俺より一年早くこの間近に住んでおきながら一度もそこいらに足を踏み入れたことがないという。

じゃあ入ろう、と適当にここを選んで、昼食のつもりだったから、コーヒーと一緒にれいはサンドイッチ、俺は昼は割安だというハンバーグプレートを頼んだ。

「思ったより多いな……」

注文したものが席に届くなりれいはそう言って、皿からサンドイッチをひと切れ持ち上げたと思うと、残りは全部皿ごと俺の方に押しつけた。

「いや、食べなよ」
「頼むよじいや」

れいはふざけた。高校生の頃にさして親しくもないやつにからかわれたのがきっかけで始まったバカバカしい関係を、俺が一年遅れで大学生になっても続けるつもりらしかった。

お前召使いだよな。輿水の。
そう言われて俺は別に腹も立てなかったが、れいはなぜかそれを気に入ってしまった。
れいにしてはうきうきした顔で俺をじいやと呼び、自分でもできることをわざわざやらせたりする。
昼食のパンの袋を開けるとか、本当にしょうもないことを。

で、じいやは今胃袋の底を試されていた。

「……まあ、できる限りは……」
「大丈夫、伊佐治ならできる」
「やらせないでほしいんだけど」
「僕にできないことをやってくれるのが、伊佐治だから」

結局全部食べたが、腹が破裂しそうだった。
れいの小食は、独居になって加速した気配があった。
れいを外食に連れ出すときは、半分くらいれいの頼んだものを俺が食う腹積もりで注文する癖がついた。
別に食べることが嫌いというわけではないらしく、誘えばラーメン屋でも牛丼屋のチェーンでもついてくる。
れいが俗っぽくて、ついでにカロリーの高いものを食べているのを見ると安心する。
うまく言えないが、口にしたぶんだけこの存在の非現実感が打ち消されていくような安堵があった。

「このあいださ、うん、ふと思い浮かべたことがあって」

思い出しながら言い直す。

「100均でまな板を買ったんだよね。プラ製の薄っぺらいやつ。わかる?」

れいはもう一度カップを持ち直し、驚くくらい静かに口をつけた。
薄い唇がほんの少し液体と湯気で湿って、わずかに艶めくようなそうでもないような気配がある。
それを少し見つめてしまって、なんだか気まずくなりながら続ける。

「特に柄とかも描いてない、裏表真っ白なやつ。で、片面はエンボス加工っていうの、ざらざらしてる。もう片面はなんの抵抗もなくつるつる。さてここで問題。どっちが表面でしょうか」

「…………」

突然突きつけられた問いにれいが目をしばたかせた。長い睫毛の陰が頬の高いところに落ちたり消えたりを繰り返す。

「つるつる……のほうじゃないのかい」
「なんでそう思うの」
「まな板だろう? ざらざらしてたら、包丁が引っかかる」

聞かされた返答がわりと想像していたものだったことに満足する。

「残念、つるつるしてるのは裏面なんだなあ」
「…………」
「あはは、こんな偉そうな顔して俺も間違えたんだけどね。そっちが表だと思って、敷いて切ってみたの。ベーコン」

れいはまた始まった、とでも言いたげなだるさを瞳に孕ませた。でも俺の言葉を黙って聞いてくれる。

「いや、もうすごい鳥肌立った。すごいの本当に。キィー、キィーって、包丁が表面に傷をつけてく音がして、感触があって、もうめっちゃ伝わってくる」

思い出してもぞわぞわする。

「黒板引っかくやつ。あれをもっと細くて鋭くした感じで、うわなんだこれって。で、俺はそこで間違いに気がついたわけ。料理する人がみんなこんな鳥肌もんの感触に耐えてるわけがないじゃん。洗って、裏返して使ってみたんだよ。そしたらすごいスムーズだった。細かいざらつきが、食材がくっつくのを防いでくれるし、刃だってすごくスムーズに滑る。あーこっちが表だったんだなーって」

れいは待つ。
俺がこういうことを話し始めたときの、いわゆる「オチ」というのがどこへ行き着くのかを伺っている。
任せてくれよ、という気持ちになる。

「なんか心的な」
「心?」
「ツルツルしてる、ぱっと見触りやすいほうを表にしちゃうと、なんかめっちゃくちゃ傷つきやすいし、触ってくるほうも鳥肌立っちゃうんだな~って」

れいの動きが止まる。わずかに。

「逆にざらざらしてるほうを人に向けとけばスムーズなんだなって。自分ザラついてる人間ですって言っておいたほうが、先にぼこぼこしたとこを作っておいたほうが、傷つけないしつかないんだな~って」
「ときどき」

れいは俺が「って」で言葉を引っ込めてほんの少し笑いを作るまで待たなかった。かぶせるみたいにしてくる。

「伊佐治のほうが、僕なんかよりよっぽど詩人に向いていると感じるときがある」

あ、拗ねた。
一本とられたみたいな気持ちでいるらしい。

「詩人じゃなくない? まな板ザラザラとでも詠えばいいの」
「出てくる言葉じゃない。ものの捉え方が本質的に」

それかられいは黙った。俺も話しかけなかった。案外気むずかしい。こういうときに慰めのようなことを言おうものならすさまじい勢いでへそが曲がる。
だからただ待つ。れいが自分で、自身のご機嫌をとりなす糸口を見つけるのを。

「……でも、たどり着きそうだとは思っている」
「なにに?」
「君に……贈る感情の、すごく深いところに」

そう言ってれいは俺を見て、それからそんな、いやそんなあからさまに、と言いたくなるような仕草で顔をぷいと反らした。首ごと横を向いて俺を見ない。

「僕は自分自身をすごくくだらない人間だと感じていて……ただ、くだらない者と、そうでない者の違いというのは、さほどないと考えてる。自分の中の一瞬一瞬を、どれだけ大切にしているかなんだと思う」

で、その首はほんの少しずつ俺の方を向いてくれる。

「僕は自分を大切にできない。こんながらくた愛せなくて当然だと思わないか。底の抜けたバケツに、いくら外的要因、できごと、他者からの感情という水が注がれても、ぜんぶ流れていくし、僕はそれを悲しいとすら思わないんだ。当然のことだと諦めてしまうんだ」
「バケツって」
「だから日常のなにかを切り取って、示唆だとか、比喩的だと思う伊佐治のことがうらやましくてしょうがないよ」
「そこまで深く考えてないけど」
「……でも、なにか溜まっているのを最近感じる」

底の抜けたバケツに。

「……そ」

れはあの子のことが関係してんの? と言いかけてこれまた慌ててやめた。
実際そうなんだろうと思うからだ。
ここで俺が指摘しちゃ台無しだ。せっかくれいの中に満ちたものが濁る。

「それをもうすぐ形にできそうだと思っている」

形に。感情に。詩にして。

「できることなら君に受け取ってほしい」

どんなに醜くても。俺を傷つけるかもしれなくても。

「いいよ」

深く考えると叫び出しそうだ。
だからぜんぜん重く捉えてはいないというような声を出してみせる。そういうのは得意だった。

「れいがくれるものだったらなんだって」
「つるつるしてるところに、刃を立てるようなものでも?」
「いいよ、鳥肌もいとおしいって感じ」
「はは」

俺が言うとれいは笑った。
俺も笑っておいた。

bottom of page